人生を表現する喜び!
自分の感情にフォーカスし、内なる声をきいてあげる!
それが自分を生きる事であり、希望の光を灯す事。
そして愛が循環する。

私の望みです。

 

PROFILE

森昭子

アーティスト、表現者
AKI Bellydance Studio代表。
ベリーダンス界の巨匠ヨースリー・シャリフ(NY在住)に師事、NYでショーに出演。

2013年にアキベリーダンススタジオを立上げ、舞台、ホテル、企業パーティーでのショーや、後進の育成に精力的に活動している。

2017年 日本刀 一如流剣詩舞宗家とのコラボショー、
2018年 矢沢永吉 京セラドームコンサート パフォーマー、
2019年パナソニック、玉姫殿グランアーモでのダンスショー、
また2019年より滋賀県千代神社「猿田彦命祭」での奉納舞受託など、異業種との創造を通して独自のアート活動、人々の心を豊かにする表現を追求している。

STORY

お姫様のような母に憧れた幼少期

大阪生まれ。
父の仕事の都合で引越しを繰り返す。
母は専業主婦で普段からお洒落で華やか。優雅なお姫様のような母が大好きだった。

大好きだった母を失い、絶望の底に。

中1の春に突然、母が倒れる。
末期の悪性脳腫瘍(余命3ヶ月)だった。
母の介護が主体の生活に。

憧れの母が薬の副作用で、見るも無残な変わり果てた姿に。
人間の姿がここまで変わると知った。

人前では、気付かれないように気丈にふるまっていたが、心はボロボロ。母が亡くなり、絶望の底に沈むんでいた。
何のために生きるのか」がわからなくなり、
将来の希望が見出せなかった。

心に光を差したダンスとの出会い

生きる希望を持てなかった頃、友人からダンスの発表会に誘われる。
初めて目の当たりにするダンスに、絶望で満ちていた心に一筋の光が差し込んだ。「何、これ!」

綺麗なドレス、情熱的な躍動感、女性らしい体のライン、
母のきれいだったころのイメージと重なり、胸がときめいた。
「綺麗」だけではなく、「苦悩」もを表現するダンスに魅了された。
いいことばかりではない、寂しさや悲しみもある「人生」のよう。
心の風穴を開けたダンスとの出会いが、その後の人生を大きく動かした。

ダンスの世界で生きていく

高校の進路を決めなければいけない時期、ダンスをしたいと言ったら、
「そんな世界で生きていけない、体育の成績も悪い、体も弱いし向いてない」
「ダンスなんかせずにまともに生きなさい」と親にも先生にも反対された。

投げやりな気持ちで短大に進んだが、ダンスの体験レッスンを受けてみた。
死んでるように生きていた中でやっと、生きている実感をもてた。
就職活動の時期にセミプロのオーディションに受かったことをきっかけに
ダンスの世界で生きていく」と決めた。

ダンサーとしての第一歩

親には通信制の専門学校に通うと言いながら、実際はバイトとダンスに明け暮れていた。
その後、ダンスを続けていることが親にバレて険悪なムードとなり、家を出た。

「ダンスの世界で生きていく」ということは「お金を稼ぐ」ということがセット。
早く一人前に稼げるようになりたかった。

そんなとき新聞の折り込みでテーマパークのダンサー募集の広告を見つけオーディションを受ける。

カルチャーでダンスを習っていたものの、基礎を教えてもらったことがない「我流」のダンスだったが、「エネルギーが強い」という理由で採用された。
ダンサーとしての初めての仕事。
嬉しかった。

自分の足りない部分と強みを知る

基礎は知らない、体の使い方は全て「我流」。

「え?そんなことも知らないの?」
ダンサー仲間や先輩が、自分の足りない部分を手とり足とり教えてくれる。

「しごき」はあるけど、「つらさ」は感じない。
ダンスにだけ集中することができる。
ただただ有難かった。心から楽しかった。

足りない部分と同時に自分の強みも見えた。

・振りや覚えが早い
・エネルギーがある
・明るい

あるときリードダンサーの役がまわってきた。
場をあたためるMCでの「関西弁」がうけた。
自分の知らなかった能力がどんどん活かすことができるようになり、この業界にも馴染んできた。

同時に「ダンスという仕事は長く続けられない」という常識に捉われ、葛藤する。

結婚。それでもダンスはやめられない

その後、結婚し、東京でホテルのレビューショーやLAでのダンス研修を終え、27歳で結婚。
相手はアラブ人、ダンスで意気投合したのだが、家族の問題でダンスがご法度な環境となり、大好きなダンスをする事ができなくなった。

あまりの窮屈さに耐えきれず、内緒でダンスの仕事を再開。

大阪のダンススタジオでの講師、劇場やコンサートのバックダンサーなど、
キャリアを積むが、チャンスがきても最小限に抑えながらの活動。

同僚が最大限に挑戦を広げていく中、制限のある中でしか動けないもどかしさ。

そんな時に喘息という病気になり、医者からダンスをやめるよう宣告される。
カラダは悲鳴をあげるが、ここでダンスをやめると心まで奪われる。「ダンスなしの人生は考えられない

ダンスで人生をやり直す

31才のとき離婚を決意、喘息はあるが、もう一度ダンス人生をやり直すことを決めた。
それから約5年間、生活のために休むひまなく働いた。
喘息は薬で様子をみながら。カラダはきつかったが、踊っていると心は満たされた。

フィットネススタジオのダンスクラスは人気を呼び、たくさんの生徒が来てくれるようになった。
一部の生徒から直接レッスンを受けたいという要望を受け、自身のダンスクラスを開講することにした。

アキベリーダンススタジオSTART!

評判を聞いて生徒がどんどん増え「アキベリーダンススタジオ」を立ち上げる。
ベリーダンスがメインで、生徒からの要望でタヒチアン、ヒップホップ、バーレスクなどもレッスンに取り入れた。

自身がダンスジャンルにこだわらず、好きと思ったものを取り入れ続けていたので、他ジャンルの展開が容易にでき、幸先のよいスタートを切った。

「自分が本当にやりたいこと」を追求する

順調に生徒が増えて、スタジオが大きくなるにつれて生徒が求めるダンスレッスンも多様に。
また、異業種や企業からのダンスショーの依頼を受けるようになり、
多種多様なダンス展開をするようになった。
煌びやかなダンスの世界は憧れ。
まだ不慣れな生徒たちにも活躍できる場をつくりながら全力で走り続けた。

でもそれは自分が本当にやりたいダンスとは少し違う。
また業界の常識、特にジャンルの種別や「こうあらねばならない」というの考えは表現の幅がせばまり、自分には窮屈とさえ感じる。

ジャンル枠に自分をはめる事への疑問が生まれる。
この頃、喘息の状態はさらに悪くなり、自分の命を使うことの意味を考える。

本当に自分が何を求めているか
自分の型を追求したいという気持ちが強くなる。

「心が惹かれる」ことに向き合って、それを喜んでもらえるために発展させる。
そのための研磨を怠らない。
羽ばたく生徒を応援できる自分でいるためには、自分が挑戦し続ける必要がある、
ということに気付く。

スタジオは、自分自身の命を使ったチャレンジを見せられる場所でありたい。

VISION

人生の中でどれだけ自分が好きなことが増えるか、
大切なものを育んでいく喜び、
ひとつでもいいし、たくさんあってもいい。
全て自分で決めることができる。
それが人生のだいご味。自分が心ひかれることを追求する。
女性は幸せでいることが義務。それを体現する存在でありたいし、
全ての女性にそうあってほしい。

人に希望の光をともし続けることが望み。

 

モリアキコ流
理想の未来を現実にする3つのステップ

  1. 自分のココロが動いたことに小さな一をふみだす。
  2. ココロとカラダが喜び、もっと追求したいと想いがあれば、自分にゆるしてあげる。
  3. おのずと道が開く出来事が起こる

その背中をみせるのが私の使命で、
皆がはばたける環境がこのスタジオの役割。

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